幕末サムライ 薩長同盟

お花見の帰りにアメ横のニキ♪ニキ♪ニキ♪ニキ♪二木の菓子(関東限定)に家族で寄りました。そこで家内が発見。
ななんと!!「古写真再現フィギュア 幕末サムライ 薩長同盟」が在庫処分で1箱100円になっていました。
早速1ケース(8ヶ入り)を購入、帰宅後開けてみてビックリ!!
全7種類+シークレットの計8種入っていました。驚きのコンプリート完成!!

桂 小五郎 - Kogoro Katsura

1833 ~ 1877
幕末・明治期の政治家で維新の三傑の一人。後の木戸孝允。長州藩出身の志士で桂小五郎と称し、同じ吉田松陰の門人であった高杉晋作らと藩の指導権をにぎった。慶応二年には長州同盟を成立させ、討幕を実現。明治新政府が成立すると、五箇条の御誓文を起草し、版籍奉還、廃藩置県の計画を立てた。
岩倉使節団に参加、帰国後、留守政府だった西郷隆盛らの征韓論に反対し、さらに大久保利通の独裁にも反対して政府を去った。その後、政府の復帰し、西南戦争の行方を心配しつつも病死した。

高杉 晋作 - Shinsaku Takasugi

1839 ~ 1867
長州藩の上士の家に生まれるも、幕末期、吉田松陰の松下村塾で学び、日本の行く末に目覚め志士となる。藩の命令で上海におもむき、帰国後、尊皇攘夷運動に参加。外国軍艦の砲撃による下関戦争では、騎兵隊を組織して活躍した。第一次長州征伐では藩首脳部の態度に反対し身を引いたが、やがて藩の主導権をにぎり、幕府の第二次長州征伐に対しては諸軍をひきいて各地に転戦。長州藩を勝利にみちびいた。討幕の実現を待たず病死。

伊藤 博文 - Hirobumi Ito

1841 ~ 1909
明治政府で最大の指導者。長州藩の下級武士の出身、初め俊輔と称し、松下村塾に学んだ。高杉晋作らと尊皇攘夷運動に参加。明治新政府では大久保利通に師事し、財政や殖産興業政策を担当したが、大久保の暗殺後は自由民権運動への対策につとめ、藩閥政府の中心となった。その後、初代内閣総理大臣、大日本帝国憲法の作成、枢密委員議長、日清戦争・日露戦争の指導、立憲政友会の総裁、韓国統監など、日本の指導者として活躍する。明治四十二年、中国満州のハルビンで暗殺された。

中岡 慎太郎 - Shintaro Nakaoka

1838 ~ 1867
若き時より憂国の志を抱き、武市瑞山の土佐勤皇党に加わり、尊皇攘夷運動に参加した。文久三年八月十八日の京都政変以来、土佐藩当局の土佐勤王党弾圧が強まるのを機に脱藩。慶応元年正月、三条実美等五卿の筑前太宰府移転の際は、西郷隆盛と会して移転条件を交渉し、それを機に薩摩と長州の和解と同盟を企て、その後坂本龍馬の協力を得て翌二年正月薩長同盟を実現する。自らは京都白川に陸援隊を結成、坂本龍馬の海援隊と共に土佐藩の友軍となった。慶応三年十一月十五日夜、坂本龍馬の下宿近江屋で会談中、京都見廻組に襲われて重傷を負い、十七日絶命。

坂本 龍馬 - Ryoma Sakamoto

1835 ~ 1867
文久元年、時勢に感じて武市瑞山の土佐勤皇党に参加したが、翌二年土佐藩を脱藩。その後、江戸に出て勝海舟の門下生として、勝の神戸海軍操練所の開設に協力した。慶応元年、長崎に商社「亀山社中(後の海援隊)」を設立、これを媒体として慶応二年、薩長二藩の同盟を成立させ幕府の長州再征を失敗させた。
後藤象二郎を説き、山内容堂を動かして将軍慶喜の大政奉還を実現させたが、この時、後藤と共に長崎から海路上京する船中でまとめた政策は「船中八策」と称せされて有名。大政奉還後、慶応三年十一月十五日京都の下宿近江屋で京都見廻組に暗殺された。

大久保 利通 - Toshimichi Okubo

1830 ~ 1878
幕末・明治期の政治家で維新の三傑の一人。薩摩藩の下級武士の出身で、西郷隆盛らと共に薩長同盟の中心となって討幕運動に活躍した。明治維新後は、木戸孝允、西郷隆盛と共に新政府を指導し、版籍奉還、廃藩置県を成功させ、大蔵卿として殖産興業、地租改正の方針を立てた。岩倉使節団の一員として外遊後、内務省を創設し、内務卿として政府の事実上の独裁者となった。西郷隆盛、江藤新平らの征韓論に反対し、自由民権運動をおさえて、佐賀の乱・台湾出兵・西南戦争などにも手腕をふるったが、不平士族のために暗殺された。

西郷 隆盛 - Takamori Saigo

1827 ~ 1877
幕末・明治期の政治家で維新の三傑の一人。薩摩藩の下級武士の出身で、通称を吉之助、南州と号した。薩摩藩を公武合体から討伐運動へと政策転換し、薩長同盟を成立させた。明治維新、王政復古のクーデターを指導し、戊辰戦争では政府軍の総参謀として江戸城の無血開城を実現。明治新政府では参議、陸軍大将となり、廃藩置県を成功させた。その後、征韓論をめぐる政争に敗れて辞職し、鹿児島に帰郷。
明治十年、桐野利秋、私学校門下生などに請われ、西南戦争の首領となるも、新政府軍に破れ鹿児島で自決した。一般に「西郷さん」といわれる写真は、西郷隆盛の死後、外国人の彫刻家・画家E・キヨソーネが描いたものを、写真撮影して複写したものだ。キヨソーネは西郷隆盛の弟、従道と、いとこの大山巌の二人をモデルにしてこの軍服姿の肖像を描いた。今回の西郷隆盛のフィギュアはその肖像写真の顔と当時の様々な資料を基に、他のフィギュアと時代を合わせるべく、西郷隆盛の着物姿を再現した。

おりょう - Oryo シークレット

1841 ~ 1907
京都町医者楢崎将作の娘。坂本龍馬の妻。寺田屋事件では、おりょうの機転で龍馬は命拾いし、この時の刀傷治療を兼ね、西郷隆盛の勧めで鹿児島へ出かける。これが、日本人初の新婚旅行といわれている。この時が、おりょうにとって生涯最も幸福な三ヶ月だった。しかし、慶応三年十一月十五日、夫・坂本龍馬横死。龍馬の遺志により土佐の坂本家に送られるが、坂本家は、おりょうを嫁とは認めず離別を申し渡され、京に戻る。龍馬の墓守をして暮らしたいという願うも、母・弟・妹の世話をしなければならないおりょうは、西郷隆盛・海援隊の人々を頼って上京する。だが、援助の手をさしのべてくれたのは、西郷のみ。その西郷も征韓論に敗れ下野する。そこで、妹・君枝のいる横須賀へ行ったおりょうは、神奈川宿で西村松兵衛と知り合い再婚。この頃、おりょうは「ツル」と名乗っていた。坂本龍馬の妻だったことは内緒にしておいた。結婚後、西村松兵衛は担ぎ商いを始めるが、商売がうまく行かず貧困生活が続き、おりょうは明治三十六年、六十六才で没する。現在おりょうの墓は、横須賀市大津町・信楽寺にある。おりょうの晩年の古写真は存在するも、若い頃の写真は存在しないといわれてきた。しかし、近年、寺田屋の子孫である井口家の写真アルバムや、古写真研究家の井桜氏により、写真台紙裏に「りょう」などと書かれた写真が発見され、おりょうの写真ではないかと研究者の間で議論されている。